リンダリンダ

写真が好きだ。

写真には映らない美しさがあるから。

矛盾した切り口であるが、私の写真に対しての思いだ。

ネットでのキリトリ記事が問題になっている。

テレビを見たままの感想文。いわゆるこたつ記事。紛らわしいタイトル。

これらはPV数を稼ぐため恣意的に出来事などの一部分を切り取った記事である。

まさにこのキリトリ記事が上述の私の写真に対しての思いに繋がっていく。

写真というのはレンズを通して、目の前の世界を焼き付けるものである。

体で言えばレンズが目で、写真が脳=記憶である。

人生を振り返ると、無味無臭な人生でもそれなりに名場面はある。

例えば入試の合格発表。

ドキドキしながら、志望校の校門をくぐり、幕が下ろされた掲示板の前で祈る思いで待機し、時間が来て幕がめくりあげ、自分の受験番号を探す。近い数字が見つかり、1段下、1段下と目を追っていけば、自分の受験番号があった。雄たけびと同時にガッツポーズ。一緒に受験した友達も合格だった。更に喜びが爆発して抱き合う。

だが写真はどうだろうか。

手元に残っているのは、受験番号の前にピースサインをした笑顔の自分である。

しかし、この写真一枚見た瞬間、待機した時の動悸や受験番号が見つかった瞬間の感情の爆発など、更にその瞬間はなかったはずのお気に入りのアナウンサーの実況中継もおまけについて、多少美化されながらも思い出さないであろうか。

もちろん不合格の場合は撮らずに帰るだろし、それはそれで、都合のいいところ(PVを稼げそうなら)は残し、悪いところは(PVが稼げないなら)削除する、キリトリ記事に似ていないだろうか。

もしくはデジタルカメラが主流の現在、貴重なフィルム数も気にしないので、場合によっては校門をくぐったところから写真を撮る奇特な人かもしれない、これはこれでどうだろうか、確かに1場面1場面説明はできるかもしれないが、淡々とテレビを見たままの感想文。こたつ記事ではないだろうか。

たまにプロの写真家の写真展なども行くことがあるが、構造や撮影法など色々と視る視点はあると思うが、私は一枚の写真に対して、レンズ外の情景・出来事を想像するようにしている。

もちろんキリトリ記事の問題点は、不特定多数に正確な情報を提供しなければならないという本質から逸脱しているのであって、このように知らない人が撮影した、知らない人・知らない動物・知らない自然・知らない景色の写真から物語を紡いでいけば、写真には映らない美しさがあるのではないか、と思う。