奇跡の軌跡の帰責

スマホ依存という社会問題がある。

私も朝から晩までスマホを触りっぱなしである。

元来友人が少ない私なので、専らネットでの情報収集が主だが、付き合いが多い人はSNSなど余計時間が割かれる。

振り返ると、まだ携帯・スマホが普及していなかった時分、人々はどう暮らしていたのだろう。

ポケベルというツールもあったのだが、主なツールは固定電話であった。自宅以外の番号も5件程度は空で覚えていたものだ。

更に写真を送るなど郵便というツールもまだ重要であった。

そしてスマホに付随している機能として、カメラ・スケジュール帳・電卓・地図・コンパス・ライトなど様々なものを持ち歩かなければならなかった。

やはりスマホは便利であるが、その代償に大きなものを失っているような気がしてならない。(外回りの営業マンならさぼりの時間が無くなったとか愚痴の一つもあるかもしれませんがそれは置いといて…)

それは出会いである。

スマホがある現代でも出会いはあるでしょうと反論もごもっともであるが、私が意味しているのは、アンビリーバブルな奇跡な出会いである。

携帯・スマホがある世の中が当たり前のようになった今ではわかりずらいですが、昔はもっと奇跡があったと思う。

ショッピングセンターなど人込みではぐれたとしても自力で解決が出来た。それでもみつからない場合は館内放送によく聞き耳をたて、駅でも掲示板を確認したりなど結構見つかったりしたものだ。

他にも偶然乗り合わせた電車の中で旧友にあったり、駅の向こうホームに知り合いを見つけたり。

また、図書館で無限にある本から1冊の自分にあった本に出会えたり、ジャケットのみでCDを購入し、それが最高の出会いだったり。

要は、情報がない状態でもなんとかできる術は持っていたし、手に入れようと五感を研ぎ澄ませていた。その成功体験が一つ一つ奇跡という価値観に結びつけたのではないか。

このようにスマホが離せなくなった現在。探す時間は短縮できたが、その出会いに奇跡と価値うてる出会いがあるだろうか。

どの時代であろうと出会いは大切で、やはりそれは奇跡だとおもう。

たまにはスマホを置いて、今ある出会いを見つめ直すのもいいのではないか。