サビありの歌詞 サビ抜きの寿司
よく例え話をする。
男性の会話は、野球の例えが多い。
我が社の4番打者は誰だとか、あいつはいつも切り込み役が多いから1番打者だとか。ネットでは勝手に打順を組んで盛り上がっているが、それならサッカーのフォーメーションでもやって欲しものだ。
最近では2足の草鞋を履く人を全て大谷翔平(二刀流)に例えてしまう。コロナ明けの活気が戻ってきた居酒屋に日本国民の大半はそう例えただろう。
女性はどうだろうか。ドラマの配役とか、料理の具材(カレーで肉は〇〇、じゃがいもは〇〇)とかだろうか。
この前も変わった例えがあった。あいつは区間快速タイプだと。その心とは最初は飛ばすが、途中からダラダラとするから、停車駅に例えた話であった。なかなかこれで、例えツッコミができたら、周りの目も変わるだろう。
日常に目につくものをよく凝らして、新しい着眼点を見出すようにしてみる。
例えばワサビとかはどうだろう。
最近の回転寿司では、ワサビ抜きがデフォルトになっている。
ワサビが必要な人は自分でつけるというのが、激しい競争世界での回転寿司業界が得た最大公約数的な結果なのだろう。
なんだろうかこのモヤモヤ感は…
そもそもワサビは深い山奥の冷涼で、澄んだ水で栽培される、なかなかデリケートな植物である。
そうだ。何か報われない感である。
厳しい環境の中、大事に育てられても、最終的には身を削り擦りおろされて、最後に残った、鼻にツーンくる、子供にはわからない香り。そして、効率を求める社会では、大事な作品の一部にもなれず、セルフサービスのオプションもので扱われる。
なんとなく中原中也あたりの詩になりそうだけど、そんな日陰な人いませんか?
また、機会がありましたら次はガリで例えてみます。
ここのコピーもどこかからコピーできないか
焼き直し・2番煎じ
クリエイティブな事を生業としている人間にとっては、とってもネガティブな言葉である。
しかし、結果の求められる案件に対しては、どうしても過去の事例などを参考にし、結局同じようなものが出来上がってしまう。
YOUTUBEなどをみると、金太郎飴のごとく模造品の見本市になっている。
最初はオリジナルを求め何かしら企画やとっておきの暴露話など差別化を図る。
ネタが枯渇し、日常企画(料理・散歩・趣味)を始める。または他のYOUTUBEを参考にメントスコーラや粗いドッキリやゲーム実況をやってみる。
どうだろうか、名前が通っているだけアドバンテージがあるので、それでもそれなりの再生数があると思うが、更に高頻度の更新を求められる。さすがにネタの枯渇・スケジュールの確保の難しさ・再生数の伸び悩み、名前が通っている有名人でもやめていく人も多い。
だが、新しいものを作り出すことがクリエイティブにとって絶対なのだろうか。新しいものには、実績がないというリスクがある。つまり具体化・具象化してはトライ&エラーで成功するか徒労に終わるかの繰り返しである。
0を1にするのはとても時間・労力のかかることである。
会社組織として、そのような部署に結果を求めるの当然だとしても、なかなか思うようにはいかない。
最近インスパイアなどの言葉をよく聞きようになった。
○○に発想・ヒントを得て作りました~のような、見方によっては丸パクリではないですよ、オリジナル要素もありますよといった言い訳に近い言葉である。いわば0.5を1にするようなものだ。そうなればマニュアル化もしやすく、効率よく結果を出すこともできるかもしれない。
言葉の綾なのかもしれないが、インスパイアも焼き直しも2番煎じも意味合いは近い。
プライドも大事であるが焼き直し・2番煎じでもオリジナル要素があるなら誇れることではないだろうか。とこの記事もオリジナルを加えた、誰かの受け売りかもしれない。
未来の煮ない手
煮物が好きだ。
正確には煮物を作るのが好きだ。
料理の肝は準備だと思う。
例えば野菜炒めを作るとする。
先に野菜や肉を切って、フライパンを温めて、炒める。
とここまではいいのだが。
炒めている途中、塩コショウ…あれいつもの置き場所、とか
そういえば冷蔵庫に卵残っていたな、一緒に炒めようかな、間に合うかな…
など準備不足が露呈すると、焼料理は仕上がりに影響が出てくる。
揚げ料理・蒸し料理も似たようなものだろう。
つまり、一度火を入れたら、手際の勝負である。
その点、煮物はどうだろうか。
ゆっくりとゆっくりと時間をかけて丁寧に仕上げる。
どっかにいった調味料も探す時間はある。
冷蔵庫に残っていた、あれ一緒に入れようと追加も可能。
また作り置きもOK。3日くらい何度も温めなおしても味も落ちないのである。
まさに、料理界のスローライフ&再チャレンジである。
どうだろうか、やや強引であるがトレンドとかけてみた。
そう今後の社会を生き抜くヒントが煮物にあるのではないか。
ゆっくり、こつこつと技術を磨いた人間が、試行錯誤して、独特の味を出していくと。
いや違う。
論理の破綻であるが、技術習得は効率よく最短に、味も分量・時間と法則にのって再現可能の味を提供するのが、現実であり、そういった効率化によって、時間が生まれスローライフの社会が実現する。
また短期間での技術取得が難しい場合、早めにあきらめをつけて、他のことにチャレンジした方が良い。それこそ再チャレンジである。
いや待てよ。
見方によっては、こつこつとゆっくりでもキャリアを磨き上げて、試行錯誤してオンリーワンな人材に成長する。
例え通りではないか。
まあ最初の例えが悪かったのか、見方によっては当てはまった、当てはまらなかったり、煮物の例えはよくないかもしれない。
最後に一つだけ、煮物もある程度は途中からの試行錯誤は可能であるが、調味料を基準の100倍以上いれたや、煮込みすぎて溶けてしまったなどやりすぎると、再チャレンジ不可能である。その辺も社会の例えに適用できるだろう。
追伸 記事作成に煮込みすぎています。こちらもコツコツ試行錯誤して頑張ります。
体力・お金・時間
体力・お金・時間という3つの軸がある。
若者は体力・時間はあるがお金がない。
働き盛りの中年は体力・お金はあるが時間がない。
定年過ぎた年配はお金・時間はあるが体力がない。
という表したものである。
ごもっともな話であるが気になることが一つ。
まず、体力は若い時はあり余り、年配になって下がるのは老化で理解できる。(折れ線グラフでは右肩下がり)
お金も若い時からなくて、働いて貯蓄して、年配になってあるのは理解できる。(折れ線グラフでは右肩上がり)
時間はどうだろか。若年・年配はあるが、中年にはないと、この項目のみ急降下・急上昇した折れ線グラフになっている。
重要なのはお金があって体力もあって時間もあるという3つの交わる点だが、残念ながらそのように交わる点はなさそうだ。
人生百年時代と言われている。昔と比べて60才も充分体力もあり、年金支給年齢も上がってくるだろう。
この先、働き盛りの中年世代をふやして、いびつな少子高齢化の人口ピラミッドを補おうという魂胆だが、我々はこの先も時間のない働き詰めの生活を続けなければならないのか。
それぞれの世代がない物を、別の世代が補うという事を考えてみると。
若者のお金がないのは投資という事になる。
中年の時間がないのも若者はアルバイト・年配は延長雇用になる。
年配の体力は介護になる。
いかがだろうか。3つ全て日本社会の問題点が浮かび上がっていないのではないか。
出る杭うたれる文化がはびこっている日本において、若者に投資というのはよほどのことがない限り難しい。
若者のアルバイト・延長雇用についても、保険の関係・雇用のミスマッチ・人材難など問題に多岐にわたる。
介護についても言わずもがな、人材難など問題があふれている。
失われた30年間ずっと課題にしてきた問題であるが、何ひとつ良くなったと実感ができていない。
ズルズルと引きずった中で、お金だけが中年世代・年配世代も弱くなりつつある。
結局嘆くだけでは解決できないので、我々中年世代はお金がある場合は若者に投資を、ない人は介護にいそしむしかない。
リンダリンダ
写真が好きだ。
写真には映らない美しさがあるから。
矛盾した切り口であるが、私の写真に対しての思いだ。
ネットでのキリトリ記事が問題になっている。
テレビを見たままの感想文。いわゆるこたつ記事。紛らわしいタイトル。
これらはPV数を稼ぐため恣意的に出来事などの一部分を切り取った記事である。
まさにこのキリトリ記事が上述の私の写真に対しての思いに繋がっていく。
写真というのはレンズを通して、目の前の世界を焼き付けるものである。
体で言えばレンズが目で、写真が脳=記憶である。
人生を振り返ると、無味無臭な人生でもそれなりに名場面はある。
例えば入試の合格発表。
ドキドキしながら、志望校の校門をくぐり、幕が下ろされた掲示板の前で祈る思いで待機し、時間が来て幕がめくりあげ、自分の受験番号を探す。近い数字が見つかり、1段下、1段下と目を追っていけば、自分の受験番号があった。雄たけびと同時にガッツポーズ。一緒に受験した友達も合格だった。更に喜びが爆発して抱き合う。
だが写真はどうだろうか。
手元に残っているのは、受験番号の前にピースサインをした笑顔の自分である。
しかし、この写真一枚見た瞬間、待機した時の動悸や受験番号が見つかった瞬間の感情の爆発など、更にその瞬間はなかったはずのお気に入りのアナウンサーの実況中継もおまけについて、多少美化されながらも思い出さないであろうか。
もちろん不合格の場合は撮らずに帰るだろし、それはそれで、都合のいいところ(PVを稼げそうなら)は残し、悪いところは(PVが稼げないなら)削除する、キリトリ記事に似ていないだろうか。
もしくはデジタルカメラが主流の現在、貴重なフィルム数も気にしないので、場合によっては校門をくぐったところから写真を撮る奇特な人かもしれない、これはこれでどうだろうか、確かに1場面1場面説明はできるかもしれないが、淡々とテレビを見たままの感想文。こたつ記事ではないだろうか。
たまにプロの写真家の写真展なども行くことがあるが、構造や撮影法など色々と視る視点はあると思うが、私は一枚の写真に対して、レンズ外の情景・出来事を想像するようにしている。
もちろんキリトリ記事の問題点は、不特定多数に正確な情報を提供しなければならないという本質から逸脱しているのであって、このように知らない人が撮影した、知らない人・知らない動物・知らない自然・知らない景色の写真から物語を紡いでいけば、写真には映らない美しさがあるのではないか、と思う。
奇跡の軌跡の帰責
スマホ依存という社会問題がある。
私も朝から晩までスマホを触りっぱなしである。
元来友人が少ない私なので、専らネットでの情報収集が主だが、付き合いが多い人はSNSなど余計時間が割かれる。
振り返ると、まだ携帯・スマホが普及していなかった時分、人々はどう暮らしていたのだろう。
ポケベルというツールもあったのだが、主なツールは固定電話であった。自宅以外の番号も5件程度は空で覚えていたものだ。
更に写真を送るなど郵便というツールもまだ重要であった。
そしてスマホに付随している機能として、カメラ・スケジュール帳・電卓・地図・コンパス・ライトなど様々なものを持ち歩かなければならなかった。
やはりスマホは便利であるが、その代償に大きなものを失っているような気がしてならない。(外回りの営業マンならさぼりの時間が無くなったとか愚痴の一つもあるかもしれませんがそれは置いといて…)
それは出会いである。
スマホがある現代でも出会いはあるでしょうと反論もごもっともであるが、私が意味しているのは、アンビリーバブルな奇跡な出会いである。
携帯・スマホがある世の中が当たり前のようになった今ではわかりずらいですが、昔はもっと奇跡があったと思う。
ショッピングセンターなど人込みではぐれたとしても自力で解決が出来た。それでもみつからない場合は館内放送によく聞き耳をたて、駅でも掲示板を確認したりなど結構見つかったりしたものだ。
他にも偶然乗り合わせた電車の中で旧友にあったり、駅の向こうホームに知り合いを見つけたり。
また、図書館で無限にある本から1冊の自分にあった本に出会えたり、ジャケットのみでCDを購入し、それが最高の出会いだったり。
要は、情報がない状態でもなんとかできる術は持っていたし、手に入れようと五感を研ぎ澄ませていた。その成功体験が一つ一つ奇跡という価値観に結びつけたのではないか。
このようにスマホが離せなくなった現在。探す時間は短縮できたが、その出会いに奇跡と価値うてる出会いがあるだろうか。
どの時代であろうと出会いは大切で、やはりそれは奇跡だとおもう。
たまにはスマホを置いて、今ある出会いを見つめ直すのもいいのではないか。
コラム
新聞をとっていますか?
70過ぎの年配の方に問われた。
正直にとっていない。ニュースはネットで見ているのみと回答した。
その方もネットでニュースをとり新聞を読まなくなった世代は承知していたが、一言1面コラムだけは読むように勧められた。
曰く、コラムで世の中の流れや身近なテーマが簡潔にまとまっており、理解する、それを更に他人に説明するのに大いに役に立つとの事。
なるほど、コラムとは1面の隅に申し訳なさそうに居座る文章と認識していたが、確かにたまに新聞を読む際に読んでしまうことが多い。
たいてい、1分後には忘れているような読み応えであるが、本題に絡んだうんちく等、読むに越したことはないだろう。
新聞の1面コラムと言えば、朝日新聞の天声人語が有名であるが、他の新聞社ではどのようなものがあるのか、全人類の参考文献ウィキペディアに確認してみたが、結果は、天声人語のみで、それ以外は産経新聞のページの下部に産経抄というコラムがある旨が記載されていた。
グーグルで調べてみたが、何かしらはヒットするが、これは1面コラムなのか、社説のタイトルなのか、他まとめサイトもあったのだが、信頼性も乏しく仕方なく、図書館に向い大手5紙の1面コラムを確認してみた。
毎日新聞…余録
読売新聞…編集手帳
日本経済新聞…春秋
以上が1面コラムのタイトルである。
また、毎日新聞の余録はネットで無料で公開されている。
ネットでは横書きであるが。丁寧に▲で本紙での縦書きの改行位置まで記されている。
内容は同じであるが、ネットのモニター越しでの横書きと紙媒体の活字での縦書きを比べてみた。
ハッキリとは断定できないが、同じ内容にもかかわらず、視覚に飛びこむものが違うようにも感じ、これは読解力も差が出るのではないか。
今回ネットでは調べるのが困難だったので、図書館に行って全紙を確認するという足を使って調べるアナログな方法に頼った。
昨今、大手検索サイトも関連性が薄いサイトか内容の薄いまとめサイトばかり引っかかり辟易しているが、「紙媒体の活字」・「足を使って調べる」これがまだいきているのも確かである。